荒涼

Wild & Cool

退屈が人を戦争させる

東京オリンピックが閉会しました。観たものは開会式と閉会式。競技ではスケートボード パークと女子走り高跳びなど。競技は非常に面白く、真剣勝負に臨むアスリートの姿に案の定心を打たれました。特にスケートボードの称え合うカルチャーには新鮮な感動を覚えました。

私は、オリンピックの開催は中止にすべきという立場でした。同意見の人もある程度いただだろうと思います。けれど、それでも競技自体に関しては、「(オリンピック開催には反対だったけど)アスリートはよくやった。スポーツはやっぱりすばらしい」という意見が多かったように感じます。

私の場合は、今回のオリンピック、そしてその一連のさまざまな出来事を通して、これまでのようにスポーツを楽しめなくなってしまったな、というのが実感です。また、アスリートは無力だな、という思いも生まれました。

無論、アスリートたちの競技、その躍動はすばらしいと思います。けれど、彼ら彼女らは、自分で活動の場を持てません。自分で自分が躍動する舞台を作れません。競技者ではない別の誰かが用意した場所でしか競技ができません。そういう意味での「無力さ」のようなものを感じたのです。

では、その舞台を用意するのは誰か。ひとつは「スポーツ振興」の名のもとに活動をする人たちでしょう。と同時に、その舞台を作るにあたって必要となるお金を用意する企業、つまり「スポンサー」という人たちでしょう。

そういった人たちは、なぜそうするのでしょうか。スポンサー側からすると、オリンピックのような世界的なメガイベントでの広告効果は非常に大きいからでしょう(それがポジティブに機能するのかどうかは昨今なかなか微妙な気もしますが)。では、スポーツ振興の側はどうなのだろう。コロナ禍という状況で、こうまでして実行したのはなぜなのだろう。


「スポーツは戦争の代替物である」という捉え方があります。人間は競い合う生き物だから、スポーツでそれを代理しているのだ、という見方です。私は、開会式でブルーインパルスが飛び、閉会式で次回開催国フランスに戦闘機がトリコロールカラーの煙を吐き出しながら飛ぶ様を見て、今回ほどスポーツ大会に戦争を想起したことはありませんでした。こんなにも戦争を暗示させてよいのかと逆に心配になりました。

スポーツの場であれ、そうではない場であれ、人間の中にはおそらく生来的に「人よりも優位に立ちたい」という欲求があります。それを何も制御しないままいると、残酷で惨めな行為が生まれます。法や倫理観がありますから、普段は内的に規制されているものの、そうした欲求を助長しスイッチを押すのは平坦な日常の中の「退屈さ」です。なので、スポーツが(またおそらくアイドルなどのスターシステムも)それを代替的に発散・昇華(消化)させる役割を果たします。そうすることで、人間の争いが、国家間の戦争も含め、抑制されます。

こういった機制は競技者のみに適用される話ではありません。むしろ観る側の私たち「観戦者」の方の話です。競技者は全力を尽くし戦います。そのひたむきな姿に私たちは心を打たれ、競技者を応援します。勝っても、負けても、感動します。あるいは勝ったら称え、負けたらディスります。いずれにせよ、私たちの競争心が、競技者が行う競争によって発散・昇華(消化)されます。平坦な日々が、「応援」という行為を通じて非日常化され、退屈さを忘れさせてくれます。

競技者ではない別の人たちが用意した舞台で、競技者たちは全力で働き、そこで生まれた「感動」という商品を、観戦者である私たちは「応援」という行為をその対価として交換します。

応援は、無我夢中です。競技者もそれに応えようと(無観客であったとしても)無我夢中です。あるいは応援してもらうのだから感動を与えないと、といった抑圧も既に競技者の中にはあるのかもしれませんが、基本的にはwin-winな関係です。加えてスポンサーやそのもとに動くメディアは感動と応援を煽り、おそらく富を増やします。皆、夢中です。そこに退屈さはありません。三方良し、ということなのでしょう。

スポーツ振興は、こうした一連のしくみをよく理解したうえで、なされているのだと思います。そしてスポーツ振興と結託する為政者(政府なのかどうかはわかりませんが)も、それをよく知っているのだと思います。やらなければ戦争が起きる、人間とはそういうものである、とよくよくわかっているのだと思います(これは半分冗談[と思いたい]ですが)。

こういった回路の外部に出るためにはどうすればいいのかを私は考えているところです。おそらく資本主義というものについて、それがどういうものであるのかをもっと捉えられるようにならなければならないでしょう。マルクスを読む暇はなさそうですが、せめて『トランスクリティーク』以降の柄谷行人を再読しなくては、と考えているところです。