荒涼

Wild & Cool

2024年2月の近況

2023年1月31日15時をもってクエがサービス終了となった。「クエ」の正式名称はDQMSLであるが、ずっと「クエ」と呼んでいたのでここでもクエとする。

今年10年目を迎えるゲームで、自分がやり始めたのはおそらく3年目ぐらいの頃。途中、やるのを二度ほどやめたことがある。一度目は、家でクエばかりやっているのを奥さんから責められたことにより。二度目は、闘技場で勝てないことが悔しくて悔しくて、その悔しさに耐えきれなかったことにより。それを経てなお再開したのは、テレビのCMで「金地図10枚10日間」を見たからだった。これにより強いモンスターをいくつか入手でき、たしかドレアムを手に入れることができたのもようやくこのときだったはず。それ以降は毎日やっていた。電車での移動時間、家でのトイレタイムなど、スキマ時間はほぼクエで、主にクエの闘技場を遊んでいた。

この十年近く、人生の時間の大半を仕事に費やし、それなりに充実した日々ではあったが、そこでは当然つらいことも悲しいこともいろいろある。そんな状況において、クエをしているときだけは、そのつらさからも悲しさからも離れることができた。クエを遊んでいるときは、何も考えないでいることができた。そういう意味で、自分はほんとうにクエに救われて生きてきたと言える。

何がそんなに良かったのか。ひとつ挙げるとすると、キャラクターたちのセリフやモンスターの紹介文などに見られる、言葉選びのセンスがある。特にネルゲル(新生転生前)には痺れた。“あまねく死を統べる冥界の王”を、“生きとし生けるものの敵”と称するかっこよさたるや。

また、自分の場合、前述の通り主に闘技場をやっていたわけだが、いわゆる「クエスト」のシナリオも良かった。特に2-3年前ぐらいから界隈でサービス終了の噂が囁かれ始めた頃のレザームのストーリー。弱いモンスターに、“ぼくたちのような弱いモンスターはモンスターマスター(すなわちユーザー/ゲームプレイヤー)にすぐに売られたり捨てられたりするし……”的な発言をさせ、ゲームに自己言及性を帯びさせてきたときにはゾクッとした。

そしてやはり、ドラクエという長く続くゲームの世界観が魅力的なのだろう。世界は広く、さまざまな種のいきものがいて、さまざまな役割がある。争いもあり、協力もある。私たちはそんな世界を旅する。人生は冒険である。ドラクエはそういったことを教えてくれる。

クエを失ってクエロスに陥るかと思っていたが、すんなりタクトに切り替えることができている。わたぼうやドレアムとまた一緒に冒険できるのがうれしい。

 

2023年7月の近況

過去最高のスピードで過ぎた1ヶ月、という実感。そんななかでもひとつの出来事を記しておきたい。

某日。Amazonプライムデーでウォシュレットを購入。これまで10年近く使っていたウォシュレットの便座にいつからか小さな亀裂が入っており、いずれ繊細な裏腿を挟んで痛い思いをすることになりそうで気になっていた。

到着して数日後の休日、交換すべく着手。まずは既存のウォシュレットの取り外し。以前に一度、設置の経験がある。経験があるので交換もできると油断していた。マニュアルをよく読まず、水道の元栓を閉めぬままウォシュレット本体に繋がっているチューブを引っこ抜いた途端ものすごい勢いで水が噴射。それはもう凄まじい勢いで、一瞬にして服も身体もずぶ濡れ。トイレの床も水浸し。為す術なくせめて噴射先を便器内の水たまりで受け止めさせようと向けるもあっという間に溜まるのでレバーで水を流す。が、またすぐに溜まって溢れ返りそうだ。これでは埒があかない。どうにもできない。完全にパニック状態になっていると、ベランダで洗濯物を干し終わり洗面所に戻ろうとして来た奥さんの悲鳴が聞こえた。

「なに?! なに?!?!」

「ごめん失敗した。まじでやばい」

すぐに家にあるすべてのタオルおよびバスタオルを持ってきてくれたのでそれを床に敷き詰め水を吸収。チューブの先は左手の手のひらに全力で押し当てなんとか止められるようになったがほんの少しでも隙間ができるとここぞとばかりに水が暴れ回る。

「水の110番?! それか管理人さん呼ぶ?!」と聞かれたが、元栓があるはず、それを閉めれば解決のはずなんだけど、この部屋の元栓なのか、あるいはマンション自体の元栓になるのか? マンション自体だったら全世帯の水を止めることになるしそれはまずい、それは避けたい、どうしたものか……などとパニクってるからまともな思考ができない。答えを待たず、奥さんは管理人を呼びにすでに向かったようだ。ちょっと手を離してボンドとかを持ってきて噴射口を固められないか、あるいは何か延長コードみたいので風呂場に噴射先を持って行けないか、風呂場だったらいくら水浸しになってもいいし……などとパニクった頭で考えつつも自分がパニックになっていることは認識できるからみるみる気落ちし、ああ情けない、こういうピンチのときの行動力がおれはまじで弱いな、「パニック」というのはダイビング用語であると昔村上龍の本で読んだことがあったな、などとどうにもならないことばかりぐるぐる考えていると外の廊下から足音が聞こえ、ほどなくして水が止まった。元栓を閉めてもらえたようだ。

絶望と安堵に包まれながら、ぽたりぽたりと水滴を全身から垂らして突っ立っていると、玄関先に管理人が現れ水浸しのおれに向かって言う。

「あんたのところの洗濯機、迷惑してるんだよ」

一瞬、何を言ってるのかわからなかったが、先日案内のあった洗濯機置場の排水溝の高圧洗浄の件かと理解。うちのドラム式洗濯機は防水パンいっぱいの面積をとって設置しているため高圧洗浄するための隙間が足りないという指摘を受けていたのだった。しかしこの状況でまずそれを言うか。

「対応するためには工事費もかかるし」

ああ、なんなんだこのジジイ。怒りが噴射する。水の次に。まじでおれ滑稽だ、ドリフじゃんと思いながら。「あー、お金ですかね。金ならもうこっちで払いますからいいですよ」と返す。

「あとついでに言うけどあんたのところのベランダにあるパラボラアンテナ、あれも禁止なんだよ」

「わかりましたわかりました。このあとすぐ外しますよ」

水が下の部屋に漏れてないか心配だったが、そこまでの浸水は奥さんのタオルのおかげで免れていたので大丈夫そうだった。なんとか冷静さを取り戻し、その後無事交換設置完了。流れでベランダのアンテナも外す。その間、奥さんは優しかった。

「純一さん、自殺するんじゃないかと思ったよ。みんなに迷惑をかけてしまう、もうこのまま溺死するしかないって思ってトイレのドアを閉めて、そこで息絶える、みたいな(笑)」

相変わらず面白いこと言うなぁと思った。そしておれはそんなふうに思われる人間なのかと情けなかった。

奥さんの行動力に助けられた、そんな夏の一日。マニュアルは事前にちゃんと読まないと。

〜2/17

ここ最近はずっとSpotifyのDiscover Weeklyを消化することに努めているが、30曲を聴き通すのはなかなか大変で、でも最後の方にびっくりするようないい曲があったりするから油断ならない。そんな感じでディスカバーしているわけだが、いいなと思ってFavをつけたものを、あとからそのアーティストのアルバムにさかのぼってちゃんと聴くのはさらに大変で、曲名もアーティスト名すらも記憶するのが覚束ない。こういうリスニング体験は自分の学生時代とは完全に違っており、不慣れのままどんどん時代は進んでいく。体系性を持たずに聴くことへの不安さやザワザワ感は尽きないが、もしかしたら、もともとはこういうものなのかも、とも思う。あらゆる宗教は音楽から始まっていると思っているが、最初は体系性なんてなくて、ただ、ある響きだけがある。そしてそれを浴びる身体がある。恍惚が訪れ、祈りのようなものが生まれる。

〜2/12

先日の散髪がしっくりきてなかったので例によってすきバサミで自分でザクザク切ったのだが例によってうまくいかず、常に自分に自信がない状態が続いており日々微妙に憂鬱。出社するのも人と会うのもどうも気が乗らない。こう書いていることで、なんだ、毎日微妙に憂鬱なのの原因って髪型の影響も大きいじゃんと改めて気づく。そして思い起こせばそれってもう中学生ぐらいからそうなわけで、変わらなさ、問題解決のできていなさに情けなくなる。

いまキンドルで読んでいる『スイッチ!』という自己啓発書が非常におもしろい。変化はいかにして可能か、についてさまざまな心理学・行動科学的研究や実例からひもといたその内容もよいのだけど、形式というか書き方の部分、構造化とメタ記述のうまさで読者をナビしつつエンターテインする書きぶりに、とても感心した。こんな原稿を受け取ったら編集者は度肝抜かすだろう。翻訳もわかりやすい。が、アマゾンのレビューを眺めていたら「翻訳文が読みづらく中々内容が入ってきませんでした」というコメントがあって泣けてくる。これで内容が入らないんじゃ何読んでも入らないですよと心の中でつぶやいた。

今日は奥さんをジョブに送って朝マックをテイクアウトしてアステリ。原研哉ポッドキャストを聞きながらデザインシステム本の手伝いをしたあとジョン・マエダの講演を視聴。ジョン・マエダさんは写真でしか見たことなかったけどこんなにエネルギッシュな人だったのか。かっこよすぎ。

〜1/21

1月は親族の誕生日が多い月で、姪、妻、母、父と続く。アニバーサリー繁忙期である。とはいえたいしたことをするわけではないが、「おめでとう」という気持ちにはなる。日々の生活のなかで、「おめでとう」の気持ちになることは多くはない。誕生日の「おめでとう」は、「生きていて、おめでとう」であろう。生きることは苦難に満ちている。有り難い。生きていて、生き抜いていて、おめでとう。ありがとう。

〜1/12

眼科でもらった薬が効いたようで、白いモヤは消え、あと視界上部に残る飛蚊のみとなりホッとした。黒い暖簾が消えるのはまだまだかかりそうな感触だが、運転に支障はないのでまあよし。

飲み会を増やそうとしており、自分から誘ってみたりしてがんばっている。一方で、「適度な運動」という目標のゴールを「体重2kg減」にしようと決めたので、そのための具体的なアクションプランを定めていかねばだよな、という状況。

本づくりの仕方をまた変えないといけないと思ってて、それはここ2年ぐらいのやり方がうまくいってないからだが、どう変えればいいか、以前はどうやっていたか、よく思い出せず、とっかかりをまだ見いだせていないのが困ったところ。少なくとも、2-3週に一回MTGして、そこまでに書いてもらったものを読んでフィードバックする、というやり方は変える。まだ粗い文章を部分的に読んでも不安になるだけだし、飽きがきてしまう。のみならず、ソトにいるべき編集者が、というかソトとウチを行き来すべき編集者が、部分のざっくり読みの回数が無駄に上がって中途半端にウチに入り込んでしまうことで、ゆるいウチに慣れてしまって対象の捉えが散漫になってしまう。しかし「すべて脱稿してない段階では読みません」と編集者が言うわけにもいかないだろうし、せめて章ごとの脱稿のタイミングで読むことは必要な気がする。あと、やはり書く前に構成を固めて、各章の流れと全体の流れを口頭で語ってもらう、というのはやったほうがよさそうなんだけど、著者さんにそれを依頼するとけっこう面倒そうだったことが多いので悩ましい。「じゃあまあ書きながら構成固めていきますか」は、経験上あまりうまくいったことがないわけで、書いているうちに構成が変わるかもだが書く前に構成をいったんは固める、はやるべきな気がする。かな。どうだろうか。むずかしい。これはつまり、「構想はいかに可能か」という話。したがって「デザイン」の話。他方で今「もしかして」とちょっと思っていることは、制約を設けること、時間ではなく文字数という制約をもっと明確に設けること、これが功を奏する可能性がけっこうあるんじゃないか、ということ。今度試してみたい。「10万字(前後)で書いてください。使えるマス(文字数)は10万です。その枠の範囲内で、語るべきことを語り終えてください」。こう言うと、各章にあるべき内容の解像度が上がるかもしれない。これまでもさらっとは伝えていたが、制約度を強調してみてもいいかもしれない。

1/1-2

正月。奥さんの実家に挨拶に行き、酒を少々飲み、帰宅していつものようにシャワー前にプランクをしていたところ、右目内にジェネラティブアート的な黒いマーブル模様が突如発生。ゆらゆらと視界を泳ぎだす。飛蚊症かな、以前にもあったよな、ぐらいの感じでその日は就寝。目が覚めても消えておらず、前の晩には気づかなかった白いモヤが右目視界にうっすらかかっていることをはっきりと認識。ググったところ白内障か。あるいは網膜の裂孔か。後者だったら失明の危険もあるようで、激しく落ち込んで過ごした一日。せっかく右目の視野を取り戻したのにこんなことになるなんて。早く眼科に行きたい。