D+R本、画集などに加えて仕込み系および制度設計仕事も加わりまたたく間に過ぎた。先週は大きな地震のさなか奥さん腹痛により救急搬送などもあった。そしてその間も戦争は続いており、忙しく過ごしてはいるものの常に心が重い日々であった。
ある日ふと奥さんがこぼした「もう降伏しかないのかなぁ」という言葉が思いのほかズシリと胸に響いた。
「いや、しないよ。ゼレンスキー大統領だってそう言ってるよ」
「でも降伏しなければ民間人の死者が増え続けるよ」
そのとおり。でも降伏だなんて。おかしな難癖つけられて、自分の国を、土地や家族を、蹂躙されて、降伏なんてできるわけない。そんな横暴、許されるわけない。そんな屈辱、受け入れられるわけない。そう思っていたが、じゃあ翻って同様の立場になったら? 自分は自国を守るために戦うのだろうか。戦うとはつまり、銃を手に取り、侵略者を迎え撃ち、殺す、ということができるのか。またそれはつまり、殺される、ということを覚悟できるのか。
「武力による侵略に屈服したら、今後そのやり方がまかり通ってしまう。それはあってはならない。それに、降伏したら戦いは終わって民間人は死ななくなるかもしれないけど、それからの社会で奴隷のように生きるのは、死んでるみたいなものだよ」
そんなようなことを言った気がするが、奥さんはあまり納得していない様子だった。
コロナによって「社会」というものの存在が前景化するのをひしひしと感じていたら、今度は戦争によって「国際社会」というものの存在を初めて感じるようになった。グローバル経済が地球を覆い尽くしているならば、国際社会による経済制裁が効果を発揮することを願う。連帯や外交は武力に勝るという前例を作れますように。戦争は無残だ。