荒涼

Wild & Cool

ミイラ取りはミイラになる

特に洋書において、ある編集者が書いた企画書がイマイチで、どうも狭いな、とか、この本の商品性や可能性の中心を捉えきれていないのではないか、とか、思わされるとき、元の原書のDeepL訳などを読んで確認するわけだが、読んでしまうと、読む前に感じていた狭さや捉えきれてなさを、こちらも見失ってしまうことがある。

ああ、確かにこの企画書に示されている内容ではあるな、と、読む前に感じていた狭さはやむを得ないものである、妥当なものではあるな、と感じてしまう。

なぜか。視座、立脚点が変わるから。したがって、視界、見えるものが変わる。読むことで、読んでしまうことで、変わる。一度内部に入ってしまうと、外部に立っていたときのことを忘れてしまう。

わりと起きることで、「ミイラ取りがミイラになる」という慣用句があるが、どちらかといえば、「ミイラ取りはミイラになる」という感覚。「なってしまう」ではなく、必然的に「なる」。自転車に乗れるようになれば、乗れなかったときのことを思い出せなくなるように、成る、変わる。

ではどうすればその回路から逃れられるのか。日頃から内部と外部を行き来するクセを持つようにすることしかないだろう。内部に入り込んだ者は、もう二度と外部から見ることはできなくなり、外部からはこう見えていたという想像を内部から働かせることしかできないので、純粋な外部は失われる運命にあるが、それを認めて受け入れつつ、懸命に外部を想像するしかない。

編集者は、内部と外部を行き来する。その訓練を日々積み重ねる仕事だろう。内部に入らなければ掴めない。でもいったん入ってしまえば外部は失われる。その諦念の中で、それでも行き来しようと、中間への意志を手放さないようにしなければならない。

また、「ミイラ」は、より適切には「ゾンビ」と言いたい。ゾンビは生と死の中間にある。そしてゾンビは、自分がゾンビであることを知らない。ミイラを取りに行った者はミイラになり、自分がそうなったことを、既にゾンビになっていることを、知らない。編集者は自覚的なゾンビでなければならない。